放送日 | タイトル | 法 話 | |
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529 | 2015年7月16日〜 | 第11組浄休寺 竹中裕史 | |
先日、私事ですが祖父を亡くしました。行年96歳でした。家で主に祖母に介護を受けていましたが昨年の秋ごろから体調をくずし、日常生活が難しくなったのでショートステイにお世話になりました。そして亡くなる一週間ほど前に、特別養護老人ホームに移りました。 私が大学を卒業してから、門徒さんの葬儀をお勤めさせて頂くことはありましたが、家族の死と向き合うのは初めてです。私は祖父と同居していましたので、ここまで一緒に生活させて頂いて感謝の気持ちが沸き起こってきました。そして祖父が亡くなってみますと自分の中で祖父とのある会話が思い出されました。 4年ほど前になりますが、私が祖父と雑談をしておりまして、その会話の中で「この歳まで生きてきたが死ぬのはこわい」という言葉がでてきました。私はもうすでに90歳まで生きてきたので、心は穏やかなのではないだろうかと考えおりましたが、意外にも「死ぬのはこわい」と言う言葉を聞いて驚いたことがあります。 長く生きることができたら、どれほど幸せだろうかと考えていましたし、なんの心配もなく最後をむかえられたらと考えておりましたが、そんな幻は、もろくも崩れていきました。 考えてみますと健康であり続けたいですとか、長寿を全うしたいと思いがちですが、そうであればその生きた年月が重なるほど満足だと実感できるはずではないかと思います。しかし、なかなかそこに安心できる毎日がないことは、長寿であれば幸せになれるというのは私の表面的な願いではなかっただろうか。長く生きる事に満足しようとしても、不安が消え去ることはないのではないかと感じました。 日々の生活をしておりますと、何かに満たされたいですとか、人によく見られたいという願いが沸き起こってきます。 そこで立ち止まって、このままでたいじょうぶだろうかと疑問を持てる生活を送っていきたいと思いました。 |
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