テレホン法話(0584-78-3452)TELEPHONE SERMON
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放送日 |
タイトル |
法 話 |
545 |
2016年3月16日〜 |
仏教は過去のものか |
第18組 応声寺 安田文香 |
平日会社勤めをしている私は、会社員の皆さんとも仏教の話をすることが、たまにあります。先日の飲み会の帰りも、先輩と電車に揺られていると神と仏の違いについての話になりました。
先輩は「神道は、こうなりますようにとお願いするから未来形、仏教は先祖を敬ったり供養したりするから、どちらかというと過去形の教えだと思う」と話して下さいました。なかなか興味深い観点でしたので、すかさず私も尋ねます。「では、その中には『今をどうしたらよいか』という現在進行形の問題は入らないのですね?」と。すると先輩「いや、もちろん現在のこともあるよ・・・。」
先輩のお話は、現代に生きる我々の考え方を代表するかのようであったと思うのです。私たちは今を生きているのに、未来や過去を先に案じ、現在を考えることを一番後回しにしていることに気がつきました。目先の人生のかじ取りは、ある程度は自分の意のままになるから大丈夫、自分でどうにかしてみせるという、煩悩から沸き上がる根拠のない自信がそうさせているのでしょうか。
親鸞聖人はご和讃に「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなうれば 三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり」と残されました。南無阿弥陀仏のお念仏を申す身となれば、過去現在未来にわたって私を縛る重い煩悩は、必ず意味あることに転ぜられ、軽くなる。こんな風にしか生きられない煩悩まるけの「わたし」を丸ごと引き受け、生きていく道が開かれると説かれています。あらゆるものは関わり合いながら存在していると説く仏教の「縁起」を考えたとき、とても仏教は過去だけのものとは思えないのです。
気の遠くなるような、はるか昔から、「わたし」のところまで繋がった「いのち」の深い意味を知り、自分の足元を今一度しっかりと見つめたら、家族や仲間と生きる喜びを分かち合い、やがて生まれてくる後の人にも伝えましょう。
そういう意味において、仏教は三世を貫いて私たちの生活全体を照らし出す、大切な生きがいそのものなのです。 |