テレホン法話(0584-78-3452)TELEPHONE SERMON
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放送日 |
タイトル |
法 話 |
557 |
2016年9月16日〜 |
誰のためのお参り? |
第18組 随願寺 諏訪邦充 |
私がお預かりしているお寺では、御門徒のお宅へ毎月のお参り「月忌参り」に伺います。月忌参りに伺うのは、御門徒宅の先祖の月命日にあわせて伺います。私の住む地域では先祖の年忌、五十回忌が済むまでは月忌に参ることになっているので、御門徒の中には月に何回か月忌参りに伺うお宅がほとんどです。そんな中で時折耳にするのが「次の命日は都合が悪いので、今日まとめてお経をあげておいてもらえないか」という声です。お寺の勤めを始めたばかりの頃はあまり疑問も抱きませんでした。御門徒からそのようにお声をかけられれば「はい、わかりました」とお答えをしていました。しかし、これでいいのでしょうか。先祖の命日にあわせてお仏壇の前でお参りするという事が、亡くなった先祖の慰霊または鎮魂の為にお経を読み、お念仏をしているならば、なるほど、理にかなった願い出でしょう。しかし、本当にそうでしょうか?私たちがお参りをするのは、亡くなった人の為にお念仏をあげているのでしょうか?
宗祖親鸞聖人のお言葉の中に「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」と仰っています。「父母の孝養のため」とは、分かりやすいい言葉を使うならば、「父・母の供養のために」という事です。親鸞聖人は「自分の父・母の供養のために念仏をしていない」と明らかにされているのです。なぜ親鸞聖人は父・母の為に念仏はしていないと言っているのでしょうか。
親鸞聖人が明らかにして下さったお言葉を尋ねていくと、私たちは自分の力で仏になることはできないですし、もちろん亡き人を仏にする力なんかも持ちえません。私たちや亡き人が仏になるのは、ご本尊の阿弥陀如来の御本願に依るのです。
この世を生きる我々は、必ずこの命終わっていかねばならぬ身を生きています。どれほど健康であっても、どれほど財産を持っていても、どれほど権力をもっていても、必ずそれらを手放してこの世を離れていかねばならぬ日がきます。亡き人たちはすでに安らかな世界、浄土に還り仏となっておられます。亡き人の命日に合わせてお経様を聞かせて戴き、お念仏申し上げるのは、この世の縁を終えて仏となった亡き人を通じて、生きとし生けるものすべてを救わんと願っておって下さる阿弥陀如来の御本願に出遇うためです。お金でもない、健康でもない、力でもない、真の依り所に出遇うためです。
蓮如上人は御文の中で、私たちは日常の生活を「浮生なる相」と仰っておられます。「浮生なる相」とは、文字通りフワフワしているという事です。定まっていないという事です。必ず手放していかねばならない事柄だけに執着し右往左往するのではなく、誰もが必ず歩んでいかねばならない道を尋ねるご縁として、日々のお参りを大切にしたいものです。 |