沿革
慶長7年(1602)、本願寺の東西分派のおり、安八郡三塚の真徳寺(現大垣市・西派)栄寿は、不破郡平尾に真徳寺を別立して東派に属した。その後、栄寿は大垣城主石川忠総から寺地を寄進され、大垣市中町に掛所を創建した。これが大垣別院の始まりである。
寛永元年(1624)3月、大垣藩主岡部長盛が大垣の町割りを再編するのに伴い、替地三反を得て真徳寺掛所は伝馬町に移った。
寛保3年(1743)3月、本寺である平尾の真徳寺が平尾御坊と名乗ると、伝馬町の掛所も平尾御坊掛所となった。掛所は延享4年(1747)には本山東本願寺の掛所も兼ねて大垣御坊と称せられた。
安永2年(1773)5月、真徳寺が織田信長に滅ぼされた伊勢長島願証寺の名跡を復活し寺号を改称したので、以後、掛所は大垣御坊願証寺と名乗ることとなった。安永年間(1772〜81年)以降は、当時の藩主戸田氏の菩提所の扱いを受け、文化9年(1812)3月、焼失した際には用材の寄進を受け、文政6年(1823)冬に本堂の再建をみた。
このように、大垣御坊は藩主戸田氏の庇護・崇敬を受けるとともに、藩の宗教行政の一翼を担わされることにもなった。藩は、旗本津田氏領内にある本寺平尾願証寺に代え、城下最大の大垣御坊に藩内真宗寺院の統制をさせようと試みていたが、願証寺の反対で成し得なかった。
嘉永5年(1852)8月、戸田氏正は甥の大井勝相を大垣御坊の住職にしようとした。願いを入れた本山は、10月8日に大垣御坊を平尾願証寺より分離独立させ、開闡寺の寺号を与えた。これによって、願証寺に代わり、大垣御坊開闡寺は西美濃地域の東本願寺末寺の触頭となった。勝相は東本願寺第二十一代厳如上人の猶子となり、敬信院釈厳起と号して開闡寺の初代住職となった。敬信院が住職の間、明治9年には大垣別院と名称が変わり、同25年には別格別院に昇格した。慶応2年(1866)、御殿、大門を建立したが、明治24年(1891)、濃尾大地震によって本堂以下諸堂倒壊の壊滅的被害を受けた。
明治33年(1900)、第二十二代現如上人の弟、慧日院釈厳量(大谷勝信)が二代住職となり、同41年(1908)、本堂の再建に着手し11年後の大正7年に完成させた。さらに向源図書館や幼稚園を併設するなど境内整備を行った。しかし、これら諸堂も昭和20年(1945)7月米軍機の空襲を受け烏有に帰したので、同23年(1948)、三河より説教所を仮本堂として移築した。慧日院没後の昭和26年(1951)からは輪番制が施かれ、同47年(1972)、人々の願いであった本堂(重層入母屋造)を再建、同51年(1976)には山門・客殿・塀を再建し、宗祖の七百回御遠忌を厳修した。
2002年4月25日から、淨如ご門首をお迎えし、蓮如上人五百回御遠忌を厳修した。
毎月12・13・27・28日の午前・午後、定例法座が開かれている。
『真宗』(2002年4月号)より