今年1年間の良い出来事、また都合の悪い出来事、それぞれの思いを抱きながら、新年がはじまりました。 私のお寺では、新しい年への期待と不安を感じながらも、毎年『ゴーン〜、ゴーン』と初鐘が、12月31日の11時45分から鳴り出し新年を迎えます。歩いてくる地元の人や車でわざわざ来てくれるご縁のある方と「今年も色々あったね」と話しながら、ゆく年くる年を寒さこらえて鐘を撞くのも楽しいものです。 ご門徒さんの一人に、天候が悪く雪や雨が降る時でも欠かさず毎年鐘を撞きにきてくれているご門徒さんがいました。しかし、そのご門徒さんが、長らく住んでいた地元を離れ、昨年10月に家族と共に東京に引越しをされました。このご門徒さんは、年行事制度ができる以前から数人のご門徒さんたちと、餅撞き、お華束、仏華立などを手伝っていただいた聞法者の一人であるため、引越しの挨拶に見えた時は私も驚き、寂しい気持ちで一杯になりました。「色々な事情はあるものの、今年から初鐘は撞きに来れないな」と寂しそうな顔をされていたことが脳裏に残っています。そんな中、一昨年の初鐘での出来事が浮かびました。
近所の若い人が撞きにきてくれて、「今年も色々あったけど、悪い煩悩を打ち消すために、煩悩の数だけ最後まで頑張ってつくぞ」と、声が聞こえてきました。 その後、引っ越されたご門徒さんが、「わしも八十才になるが今年も撞きに来れた。この年になっても簡単に煩悩は消せるものじゃないな〜。ただ、煩悩を自覚しながら、今こうして撞いていることに感謝して生きたいね」と言われました。寒さと同時に骨身にしみる深い言葉に出会ったことを思い出します。 108どころか、一日一つ煩悩があったとしても、一年で365個もあることになります。 『除夜の鐘』は、浄土真宗では『初鐘』といわれ、煩悩を消し去ろうとするのではなく、煩悩にまみれて過ごした今年を反省し、あるがままの自分を見つめ、煩悩があるが故に見えてくる我が身の生き方に気づいていこうと自覚することを促す『鐘』なのです。
鐘の音で払い清めるということではなくて、鐘の音に仏法を聞いていきたいものです。
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