私たちは、日々何かと忙しく暮らしていますが、生きると言うことを考えてみたとき、その確かな手応え実感と言うものは、なかなか感じ取れないのでしょうか。まして命ということもわかったようなことにして中々、向き合うことができません。 何か事件が起きたときなどは社会問題として、また、子供たちへの教育問題として命の大切さと言うことが叫ばれますが、わが身の問題としてはまだまだ距離があるように思えます。 私の知人で独居老人の方がみえ、一人で生活するに不安になってきたということで、兄弟で相談して二、三ヶ月ごとにそれぞれの家にひきとり、順番に面倒をみていくことにされました。しかし、いざ始めてみると、お風呂やトイレの介護問題もあり中々大変です。 そこで今度は、兄弟で費用を負担して施設に入ってもらうことになりました。何とか施設にもなれ、しばらくは落ち着いた状態がつづいておりました。しかし、歳が歳ですから、施設での行事やリハビリのも意欲が感じられなくなり、挙句の果てにはベットから落ち、寝たきりの状態になりました。 それからしばらくしておじゃますると、ふとこんな言葉をこぼされてみえました。 おばあちゃんをみていて、何のためにいきているんやろう、早くお迎えが来てくれればいいのと言われました。 どこにでもあるよく聞く話であります。しかし人間としての尊厳はどこにあるのか、どう守ればよいのか多くの人が同じように考え悩むところであります。 これまでも兄弟で順番にお世話をされてきましたし、施設にも足しげく通ってみえました。ですから、情けないとかみすぼらしいとか、そんなところから出てきた言葉ではありません。おばあちゃんを大切に思う気持ちが、そういう言葉になってでてきたわけであります。 また、こんなことも言ってみえました。 おばあちゃんの介護のことで兄弟も行き来があり、皆で知恵をしぼってきました。 おばあちゃんのことがなかったら、こんなに話し合うこともなかった。おばあちゃんを見ていて自分もこうなっていくんやと教えられているように思う、と言ってみえました。これは、おばあちゃん、本人の意思には関わりなく回りの人たちに色んな働きかけをしていたのであります。 面倒をみていたはずの家族が逆におばあちゃんに支えられ、わが身の行く末を示されていたのです。そして生きていくということがどういうことなのか、あなたはどう生きていくんやと問いかけられていたのです。 そこに共に生きるということが、教えられているのではないでしょうか。
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