今年の五月に父の三回忌が勤まりました。父は亡くなるまでの二年間、すい臓がんの治療を受けていました。この二年間は今でも多くのことを考えさせてくれます。 私は、父がすい臓がんと聞かされた時、ショックを受けたのを覚えています。 もちろん本人も相当なショックを受けていたと思います。私のショックとは、死を実感したからではないかと思います。この事実を受け入れられなくて、明日すぐに父が死ぬわけではないと強がって向き合えませんでした。口では出さないけど、あとどのくらい生きられるのかという不安や恐怖が消えることがなかったです。 二度の手術、抗がん剤治療を受け、父は徐々に元気になっていきました。元気になった姿を見ると、このまま病気は治っていくのだろうと思い、身近な人が亡くなるという不安や恐怖が減ってきていたと思います。父の体調が悪い時には何でも許せていたことが、体調がよくなってくると段々父への不満や愚痴が出て、父にあたることもあったのをよく覚えています。自分の持つ不安や恐怖の都合によってコロコロとかわる自分をみて、父のことを心配するふりをして自分のことばかり考えていたように思います。父の姿を通して自分自身が死の恐怖におびえていました。 亡くなる一月半前には、もう治療ができないと宣告され、もう死を待つだけという状況がショックで父にかける言葉もありませんでした。 宣告された父は変わらない生活を送り、最後には自分の葬儀の準備をし、このままゆっくり静かにいかしてもらいたいと言って亡くなっていきました。 私はいつも死というものを遠くに追いやって、見て見ぬふりをして生活してきました。生死は、コインの表と裏のように表裏一体で、生と死があっていのちです。 生あるものは必ず死があるのは当然なのに、いつも生の地点に立って物事を見て、見えないぐらいに遠いところに死という地点を置き生活をしている私が、死という地点に立って物事を見ることのできるようにと、父の姿に知らされたように思います。
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