月日が過ぎるのは早いもので、寺に嫁いで二年半になります。私の実家も寺でした。寺といっても宗派が違います。西山浄土宗という法然上人を宗祖とする寺で育ちました。法然上人と親鸞聖人は師弟関係といわれているし、同じように南無阿弥陀仏と念仏するし、「そんなに気にすることはない」と周囲からも言われ、私自身も深く考えることなく嫁いできました。しかし、いざ寺に入ってみると、今までに聞いたことのない言葉や教えに出会い戸惑ってばかりの日々です。 その頃、本山での研修会に参加する機会をいただきました。知り合いになった若坊守さんに言われた言葉が、今でも強く印象に残っています。 「寺に嫁いだら、いっぱい法話が聞けると思ったのに、接待やお斎の準備で本堂にすら行けない。悲しい。」と…。彼女は仏教系の大学に学び、縁あって寺に嫁いだ方でした。 また、別の若坊守さんは、 「本尊やお内仏の前で、理解できていないのに合掌したり、南無阿弥陀仏と念仏できない。」と話されました。拒否しているのではなく、受け入れよう、理解しようと努力されているからこそ、出てきた言葉だと思います。しかし、理解していないと合掌したり、念仏をしたりしてはいけないのでしょうか。 私の祖父母は、毎日手を合わせていました。本人に直接聞いた事はないけれど、理解して手を合わせていたのでしょうか。ただしていただけなのかもしれません。そうしなければいけないと思ってしていただけかもしれません。でも手を合わせている姿をみて、子どもの頃の私はその横に座り手を合わせ「まんまんあん」といっていた記憶があります。それは強制されて手を合わせたのではなく、自然に手を合わせていました。 言葉や行動は、本人の思いとは別に、それが現れたとき周りに何らかの影響を与え、意味を発していると聞いたことがあります。言葉や行動を発したら、それを聞いたり見たりする人がいる。南無阿弥陀仏と念仏したり、合掌したりすることで、それを見た周りの人に何らかの影響を与えるのなら、しないよりはした方がいいのではないでしょうか。 さあ、寺で同朋会や法話があるとき本堂にちょこんと座り、手を合わせて聞法しよう。そんな姿を見て、喜んでくれる人がいるのなら、寺に足を運んでよかったと思える人がひとりでも増えるのなら、こんなうれしいことはありません。そういう人たちに囲まれ寺で生活できる。素敵なことだと思います。
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