先日、ある方に旅行の写真を見せていただきました。その中に、十歳ほどの少女が、目隠しをして崖の上を歩いている写真がありました。その写真のタイトルは、「一寸先は闇」であります。 人間は、生を受けると同時に、常に死と直面して生きております。この事実に例外はありません。いつ何が起きるかわからない世の中を、みな手探りで生きていると言えるでしょう。しかしながら、実際の生活はどうでしょうか。時間に追われ、目まぐるしく変わる環境の中、慌ただしく一日が過ぎ、一月が過ぎ、一年が過ぎていっているのではないでしょうか。その間、生かされているという事実は見過ごされているのではないでしょうか。私自身もそうであります。生かされている命であるにも拘わらず、なんとも乱暴な生き方をしているように感じます。 パナソニックの創業者である松下幸之助さんの執筆された本の中に、このような一文があります。 「目の不自由な方は、なかなか怪我をしない。むしろ目の見える人のほうが、石につまづいたり、ものに当たったり、事故を起こす。目の見えない方は、手さぐりで歩む。一歩一歩が慎重であり、謙虚である。一歩を歩むために全神経を集中する。人生の本来歩むべき姿は、まさしくこれそのものだろう」と綴られております。 冒頭でお話しした写真の少女も、まさしくこの歩み方を伝えているように感じます。崖のすぐ横を、いつ転落するかわからない危険な中を、一歩ずつ慎重に歩んでいるのです。 この慎重な歩み方を真宗の教えに照らしたとき、蓮如上人の記された「白骨の御文」が頭の中をよぎります。我々は「朝には紅顔あって夕べには白骨となれる身」であります。人の生涯に年齢は関係ありません。誰もが「後生の一大事」を心に留め置き、心から阿弥陀仏を拠りどころとし、念仏申しあげるものと書かれております。 浄土真宗では「念仏によって救われる」とされております。この慌ただしく過ぎる末法の時代であるからこそ、その中で明日この身がどうなるかもわからないと不安を抱える凡夫であるからこそ、念仏が有効であるといえるのでしょう。 今後、医学・科学はますます進歩し、目覚ましい発展を遂げるでしょう。しかしながら、死と直面して生きていくという事実に変わりありません。 一寸先は闇と言われるこの人生において、一歩一歩を慎重に力強く踏み出す中で、念仏とのかかわりにより、自分の生かされている命に気づいていきたいものであります。
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