物質文明の発展により世の中は便利になり、相対的価値が絶対であるかのような社会。今その影の部分、つまりその考え方の限界が顕著になってきています。 孤独死、自殺者の増加、家族内殺人といった社会不安が広がっています。そしてそれは、生きているのに生きているという実感の喪失をまねき、生きる喜びを失っている人間の在り様を如実にあらわしているのではないでしょうか。 けれど、一方で人間は自己の存在を確認したい欲求を持っていると思います。 それは人間本位の考え方では、どうにもならないことを感じておられることだと思います。 そこで私たちは、様々な聞法会に行き、先生のお話に耳を傾けているのですが、その時はなるほどとわかった気になるだけで、本当にわかったことになっていない。そういう問題にたたされています。 仏教の学びには、大きく分けて「解学」と「行学」の二つがあります。一般に「解学」とは知識的な学びです。それに対して「行学」は実践的な学びです。生き方が明らかになっていく学びです。しかし、私たちは「行学」をあきらかにしようとしているのに、いつのまにか知識的学びに陥ってしまっているのではないでしょうか。 『教行信証』の信巻に「もし行を学ばんと欲わば、必ず有縁の法に籍れ」とあります。「有縁の法に籍れ」とは、学ばずにはおられない仏の教えに身をすえるということであります。 善導大師の教えてくださる「五正行」、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養という五つの行で宗教生活を押えられています。まず、読誦ということが出発点になります。読誦した教えをいただけたとき、新しい自己に出逢わされ、教えが自分の身に開かれていくのでしょう。だから繰り返し読誦していくことが生活において大事なのでしょう。 しかし今、この読誦ということも、現代社会の目まぐるしい生活の中で、失われていく危機に立たされています。だからこそ、自分の願いをもっとはっきりして、このことを普段の生活において実践し確かめていくことが大切であると。自分の聞法のあり方が問われたことであります。
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