小学校4年生がつくった「運動場」という詩があります。
「せまいな せまいな」といって みんな遊んでいる 朝会のとき石をひろわされると 「広いな ひろいな」とひろっていた。
もちろん運動場がせまくなったり、広くなったりするはずはありません。 その運動場が、遊んでいる時は、せまく感じ「せまいな、せまいな」と言い、石を拾わされると、「広いな、広いな」と愚痴をこぼす自分。 その時の都合次第でコロコロと思いが変わるのである。それが、気まぐれでわがままな人間のしていることに気がつくのである。自分の思うようにしたいさせたい私と、それを冷静に見据え、批判し、あるいは、なだめようとしているもう一人の自分がいることに。 この詩には、正直な思いが表され、煩悩具足の凡夫の姿が言いあてられている。 我々は、財貨を手にする時はあたりまえ少ない少ないと受けとり、手にした同じ金額を出費する時は、高い高いと思うのである。 我々は、正しい教えに生きる人を通して、もう一人の私をいかにめざめさせ育てるか、仏法にわたくしを聴いていくのでありましょう。 親鸞聖人は、「自分を善人と思うのは独りよがりの見方であり、罪悪深重煩悩具の凡夫とし、阿弥陀さまの広大な智海が、こんな私にたてられていると受けとられている。自分もこんなところがあったなと省みることができる、そういう人は、心浄き白い蓮の花のような人と名付けられる。」とおっしゃっています。
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