先日、テレビで茶人の千宗屋さんが『「待つ」ということ』という本を紹介していました。現代社会は、待たなくてよい社会になってきているそうです。インターネットですぐに何でも調べることができるので、一度自分の中でじっくりと考えることがなくなっているそうです。 自分も少し気になることがあると、携帯電話で調べることがあります。とても便利なので、手放せなくなっています。確かにいつでもなんでも調べられるのは便利ですが、苦労せず調べたものは、感動がないせいかすぐに忘れてしまいます。すぐに調べて納得すると、ずっと頭に残って考えるということが減ってくる気がします。現代においてすぐに答えや結果を出すくせがついて、じっとする時間や、じっくり考える時間が減ってきているかもしれません。 飲食店などでも、待たせないことがサービスになっています。そうすると、少し待つだけでストレスを感じてしまうことがあります。待つことができないと、自分や生活に余裕がなくなってくるかもしれません。 子どもに絵本を読んだ後、すぐに感想を聞くと、子どもが絵本を嫌いになると聞いたことがあります。余韻に浸る時間も無く、すぐに感想を求めるというのは、待つことができないからかもしれません。 おいしいお店に並んで待つことや、注文した商品が届くのを待つときなどの、楽しい「待つ」というのもあります。ただ、必ずしも自分が待っていた事がやってくるとは限らないので、楽しみに待っていたことが絶望に変ることもあります。 病気や介護などで長期的に「待つ」こともあります。待たざるを得ない、待つしかないといった感覚でしょうか。待っている間は辛いことが多いかもしれないですが、その時にしか分からないこともあります。 宗屋さんは、「待つ」ことがなくなってきている根底には、「何でも自分でどうにかできるといった思い上がり」があると言われていました。「待つ」ことをなくしていく事は、自分に都合の悪いことを排除しようという人間の傲慢な行為かもしれません。「待つ」ことがなくなるのは便利なことに思えます。しかし、都合の悪いことも受け入れ、自分自身を見つめ直す時間が失われるのではないでしょうか。 あせらず、じっくり「待つ」ことも大事だと感じました。
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