人生は様々な出来事の連続です。私たちは苦楽を分かち合い生活しています。それぞれに予定や目標を立て、人生を積み重ねています。苦楽の人生、道理の上ではそう理解しても、実際に挫折や失敗に直面すると、中々受け入れられないものです。現代ではそうしたことを「想定外」とも言います。 私自身も人生に挫折し、つらい経験をした一人です。その時は、頭の中で描く未来が真っ白になりました。確かに人間には努力や向上心が大切です。競争の中で自分の存在価値が認めてもらえるからです。ところが私たちはそのような目標通りに生きられるのでしょうか。人生のほとんどが思いがけない連続なのです。 では仏教の考え方はどうでしょうか。その逆です。仏教の歴史は、こうした人間社会の苦悩を直視してきました。すなわち「自我」ではなく「無我」を説くのです。あらゆる出来事は全て頂きモノであり、確固たる私という前提があって、社会があるのではないのです。 私たちは縁によって存在し、絶えず変化し続けています。つまり、無数の縁によって、自分が生かされているのです。けれども、私たちの日常生活は外ばかりに目が向けられ、物事や環境の中で価値を築き上げています。そのことに私たちは束縛を受けているのです。おそらく人間だけが、過去や未来の出来事に執着し、思い悩むのではないでしょうか。 たとえば、仏教では「心不可得」と説きます。自分で思い描く心ですら、自分のモノにはならないのです。仏教では、こうした挫折や失敗の中から自分を見つめ直すことを教えてくれます。結果を追い求めるだけの人生に本当の幸せは得られるのでしょうか。私たちの人生は躓くことばかりですが、ただ縁起の中で生かされているという、今の一点を忘れてはなりません。
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