先日、自坊の門徒総代さんが、百歳で亡くなられました。
晩年は、総代を退かれていましたが、40年程の長い間お世話になった方でした。どこへでも自転車で行かれ、いつも元気で「死」などないと錯覚してしまうようでした。厳しいことを言われ、きついなぁ。と思うこともありました。
私たちは、日々の生活をしていく中で、さまざまな人や物事に出会い、繋がって生ています。それは自分で作り出したり、選んで引き寄せたりしたものではなく、縁によって私たちの周りに存在するものです。
私は、関東地方の寺院に生まれ両親に育てられ、大垣に嫁ぎ、多くの門徒さんと出会わせていただいています。その全ては縁であり、私がここにいる事実です。
テレビドラマの結納の席でのこと、仲人の口上を聞いていると、「この度はご良縁が相整いまして・・・」と。良い縁があるとなると、悪い縁もあるとなる。
良い縁は私に都合のいい、歓迎されるもので。悪い縁は私に不都合で、避けていきたいもの。では、「死」はどうだろうか?
親鸞聖人は「死ぬ」ということを、「娑婆の縁がつきること」と、おっしゃっています。
この世に縁のあるかぎりは、この世におらせていただき、しかし、この世の縁がつきて、あの世に縁ができた時は、なごりつきませんが死なせていただく。事実のままを生きゆく聖人のおすがたではないかと思います。
「良縁あってよし、悪縁あってよし、両縁あって、ご縁なり。」
という言葉のように、良い縁も悪い縁も両方が全て縁であり、ありのままの事実を受け止め、縁と共に生きることが私の歩みであると感じています。
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