テレホン法話(0584-78-3452)TELEPHONE SERMON
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放送日 |
タイトル |
法 話 |
511 |
2014年11月11日〜 |
彷徨う者 |
第5組西生寺 稲葉一成 |
プラネットという言葉をを辞書で引くと、惑星とでてきます。太陽の周りを回っている木星とか金星とか呼ばれるあの惑星のことです。先達て、どうして惑星の事を「惑う星」と書くかわかりますかと、尋ねられました。全く気にしたこともなかったのですが、惑星とは文字通り夜空を迷い惑って動くように見えるから、その様に呼ばれるのだそうです。同じくプラネットの語源も、ギリシャ語の「プラネテス=彷徨う者」からきているそうです。
夜空を彩る星たちは時間や季節によって場所を変えますが、いつも同じ配置、星座の形を保って規則正しく移動しています。しかし、惑星と呼ばれる星は変わった動き方をするようです。惑星は夜空の星座に対して、日ごとその居場所を変えます。実に気まぐれで、ある星に近づいてきたかと思うと今度は引き返し遠ざかり、また思い直して近づいてくる。夜空を右往左往している様に見えるそうです。
何故この様に見えるかというと、「この地球も動いている」というのが理由で、錯覚、ただ単に見かけの問題だそうです。
自分は動かずじっとしていると疑わないと、他が彷徨っている様に思えます。古代の天文学者を悩ませた気まぐれな星は、まさに彷徨っているようにしか考えられなかったのでしょう。
仏教にご縁をいただいてまだほんの僅かですが、最近、人の思い迷う姿にであう機会が多くなりました。人の悩める姿を目の当たりにして、我が身を顧みれば、悟ったような顔をしている自分もまた、浮き草の様に惑い漂っているのだなと感じます。地に足をつけたつもりでいても、その大地はもろく安定せず、しかもその事すら気付かず天動説で生きているばかりです。
教典に釈尊の言葉として「アングリマーラよ、私は立ち止まっている。汝こそ止まれ」という一節があります。今こそ自らの彷徨いに気付き確認せねばなりません。 |